2018-07-17
7年目の大船渡

岩手県紫波郡
ありす鍼灸治療院  藤沼 敦子

 3・11震災より7年が経過。
大船渡病院 その、東日本大震災よりずっと以前から、災害医療というものを心に描き、発災前から少しずつ対策を練り、いずれ訪れる災害に向き合っていらした大船渡病院の救急専門医・脳神経外科専門医山野目辰味先生をお尋ねしてきた。

6月ももう終わる29日金曜日、この日にお尋ねすることは今月初めにはすでにお約束していたので、週間天気予報を睨みながら、「梅雨に入ってしまった~! 天気悪っ」と数日前からヤキモキしていたのに。
なんと、その日は美しく空は晴れ、海も綺麗で、蒸し暑いことを除けば行楽日和であった。
お約束の14時半ちょっと前に、脳神経外科の受け付けの看護師さんに名刺を渡して取りついでいただいた。「お声をお掛けしますので、お待ちください」と言われて待つこと10分程度。なんと、山野目先生ご自身が現われ、お声を掛けてくださった。びっくり!

はい、いつもの第一印象。
もっとバリバリ系の、こう…、やったるぜ! という感じの先生を想像していたので、柔らかい雰囲気のどっちかっていうとカウンセラーみたいな空気を抱く先生が現れて、「おっ?」と思った。
先生は白衣姿ではなかったので、こちらもお医者様! という緊張感がなくて、大変お話しし易く、いろんなことをずけずけとお聞きしてきました。
大船渡病院にお勤めの山野目先生のご実家は、宮古市閉伊川沿いの古くて大きなお屋敷だった。先生のご両親は漁業を営んでいらしたそうだ。(祖父がマグロ漁師)

山野目医師「災害医療というものに対して、やっていこうと思われたきっかけは何でしょうか?」
と、お伺いしてみると、「生い立ちでしょうかね」。十勝沖地震の津波を目撃したことや、幼い頃からご家族や地域の方々から津波について語り継がれてきたことを聞いて育ったから、と。そして、先生は「たまたま医療という現場にいるので、災害医療を考えるのは当然のようなこと」だった。
3・11の震災では、先生ご自身、ご親戚の方を3人亡くし、ご近所の方々も10人弱津波に寄って亡くされていらっしゃるそうだ。
そして、震災直後の激動期が過ぎて、ちょっと時間が空き、新聞に掲載されている死亡者名簿を眺めたとき―。そのとき、大船渡市の分ではなく、陸前高田市の名簿から目を通して、見知ったお名前を数えてみたそうだ。ああ、この方は手術して良くなった患者さんだ、知っている人、顔が分かる人…170名まで数えて、そこでイヤになってやめた。
170名。なんという数だろう!
陸前高田市には、息子さんが幼い頃からお世話になった7人家族の食べ物屋さんがいらした。後に聞いたら、そのご一家は6名が流されたという。言葉を失った。
宮古市のご実家の目の前を津波が遡上する様子を目の当たりにしていた先生は、陸前高田市を訪れる度に堤防の低い川を見て「ここ危ないな」と感じていたそうだ。その頃から、先生の目には、‘津波’が、どのように陸地に這い上がってくるか、見えていたのかも知れない。
陸前高田市は避難所の設置に重大な間違いを犯していた。明治29年の三陸地震津波で浸水した地域に、避難所が指定されていたのだ。そして、そこに逃げた人たちが軒並み波にさらわれてしまったらしい。
1995年1月17日に起きた阪神淡路大震災。山野目先生は、いてもたってもいられない衝動に駆られ、現地に行って救護活動を手伝いたかった。しかし、病院の縛りというのだろうか、遂に許可はおりず、行くことは叶わなかった。折しも、大船渡病院はその年に移転が決まっていて、引っ越しのために、医療資材の整理作業を行っていた。移転先に持っていくもの、廃棄処分するもの、などに分けて準備をしていた最中、震災現場から医療資材が不足しているとの連絡を受ける。
先生は、廃棄する物資の中から医療用の針・縫合用の糸、ガーゼなどを調達し、業者さんにも協力いただいて、体温計その他、そのとき集まった物資を送った。お礼は要りませんと書いて送ったにも関わらず、お礼が届き、それが院長の目に触れてしまい、先生は「県民の財産を勝手に使った」とお叱りを受けたそうだ。

それから。気になっていた陸前高田市のこと。
高田市は海辺から平野が広がっているため、陸前高田病院は津波の際に機能停止することは想定出来ていた。そこで、高田病院が浸水したとの想定で避難訓練を計画したこともあった。しかし直前になって事務局長さんから出来ないとの連絡。落胆。
それでも先生は諦めなかった。絶対にいつか来る津波に備えて、先生の奔走は続く。
病院長が変わり、スマトラ地震が起こった年の2004年春、先生は災害時医療の必要性を認めてくれた管野院長のもとで、災害医療を一任され仕組みを作った。その年の10月13日、第一回院内災害医療訓練が行われた。そして、迎えた23日、中越地震が起こる。そして、続いて12月26日、スマトラ地震・津波。
まるで、先生が災害医療を始動するのを待っていたかのように、その後は災害が頻発することになる。
その後も、防災訓練や各種災害医療訓練を繰り返し、行政にも働き掛け、実際に役立つ災害時医療のマニュアルを作り、磨き上げていく。それは「医療」という資材のみならず、災害が起きたときに予想されるあらゆる事態を想定しての予測準備だ。

例えば。
発災するとライフラインが断たれることが想定されるため、水の確保、電気の確保など。大船渡病院では400床強のベッド数の規模であるが、一時間辺り、どのくらいの水を消費するか分かりますか? と先生は聞く。見当もつかなくて、100リットルくらいですか? 22~24tです、と先生はお答え下さった。まったく規模が違いました。そりゃ、そうか。飲み水のことじゃないんだから。
屋上には350tの貯水槽があるが、補給がなければあっという間に使いきってしまう。自家発電のA重油も消費量を計算して、どのくらい残っていたら3日もつか、ということを考えた。50%消費したら満タンにする、という取り決めをして、最低でも2.7日もたせるようにしていた。
実際に3・11の災害時には、A重油は満タンだった。つまり、10日程度は過ごせる計算だったそうだ。
が、震災後、病院は最優先で復旧作業が行われたので、電気は48時間後に、水は24~25時間後には復旧したそうだ。
陸前高田市の様子がなかなか分からない中、半島の先に在る広田町のことが心配だった。その半島の根元が両側から津波を受けて交通が麻痺し車が入れない。土地勘のある地元出身者に徒歩で状況を見てきて欲しいとお願いし、直線距離で5kmもある道のりを歩いて視察してもらった。結果、診療所は壊滅だが、先生はご無事で避難所にいらっしゃることが判明。ホッと胸を撫で下ろされる、ということもあった。
山野目先生が「これをやるぞ!」と決意し、取り組んだのは、‘クラスターアプローチ’だそうだ。
クラスターアプローチとは、‘保健、教育、緊急のシェルターといった分野別に分かれている人道援助を、災害時のそれぞれの活動の役割と責任を明確に定義することによって、各分野内、また分野間の活動の全体の調整を強化すること’ である。先生のお考えとしては、医師のみならず、看護師、保健師、理学療法士、薬剤師、鍼灸師など各職種のかきねを超えて統合してチームを作ることだとおっしゃった。
お互いが情報を共有することで、新たな情報、必要とされる情報を拾い上げることが出来て、必要な場所に必要とされる人材・資材を迅速に投入することが出来る。ヒトの命が掛かっているとき、「情報」は、急を要することが多いのだ。
陸前高田市は、町が消えてしまい保健所の所長が釜石市と兼務だったため、所長不在という状況に至り、医療と保健がバラバラに活動しているため、非常に効率が悪かった。保健師さんは、せっかく拾い上げた情報を「どこに報告すれば良いんですか?」という状態だったという。それを山野目先生が県と必死に交渉した。

今、7年前の震災を振り返って思うことはありますか? とうかがうと、「いっぱいあります」。
振りかえってみると、非常事態でも何か動いてくれる人はごく一部に限られる、ということを非常に残念そうにおっしゃった。
熊本地震の際も、市役所や県庁でも、「前例を作っても止まってしまう」とお役所関係の融通の利かない対応と反応の鈍さを嘆かれ、せっかく仕組みをつくって記録を残しているのだから、活用して欲しいと、公表して役立てて欲しいとおっしゃってくださった。
協定があるところのチームは動きが迅速で、すぐに来てくれるそうだ。病院に直接来てくれた医療チーム、大船渡市に来てくれたチームなどを調整し、要請は介護保険福祉センターの保健師さんにあげる。医療チームは6月いっぱいで撤退、保健師さんのチームは12月までお手伝いしてくださったという。
わずか13の医療チームをなんとかやりくりして、お願いして、震災後の医療をまかなってこられた山野目先生、そしてたくさんのスタッフ、ボランティアの方々には心からお疲れ様でしたとお伝えしたい。
先生ご自身被災者であることと同時に、災害医療を引っ張ってきたご苦労や、むくわれない思いをたくさん抱えていらっしゃるご様子が、必死さもあいまって、なかなか壮絶なものを感じた。

山野目医師の仕事環境 先生はおっしゃった。年月を重ねるごとに「ひどくなっていく部分もあるし、良くなっていく部分も」と。その内容はお聞きしてみたがおっしゃらなかった。自らを分析してみるつもりはない、と。フラッシュバックがあったらあったで良いんです、と。受け止めるしかないのだ、と。
自分としては苦しんだとは思っていない。みんな同じだと思ってるし、と先生はおっしゃった。それは病院内で当時必死に医療に従事したスタッフに対するものなのか、被災者の方々に対するものなのか、両方なのか。いずれ、先生ご自身ご実家を失っている。宮古市のご実家は家の形こそ留めていたが、周囲に新築の家が流れてきて家が寄り添っているように見えたと。家の中に車が5台くらい流れ込んでいた、とおっしゃった。
PTSDという概念が一時期マスコミでやたらと取り立たされたが、先生は、苦しいこと、つらい記憶をなかったことにして忘れるのではなく、それを抱えたまま、包括して受け入れて生きていくしかない、というようなことをおっしゃった。
ストレス外来とでも言うのかな、と先生はこの7年間、患者さんの「心に抱える傷」を診てきた。ああ、だから、最初にカウンセラーさんのようだと感じたのだ、と後から思った。
被災状況―自宅を流された、家族を亡くした等の情報をお一人お一人書き取って、心の変化はあって当然、それを安定剤や精神薬でなんとかしようなんて間違いだ、と先生は至極もっともなことをおっしゃった。聞いてあげるだけ、或いは、先生の方から、「~だったんですね」と言ってあげたりすると、先生の話したことに共感して泣いていく人がいっぱいいらしたそうだ。診察に一人30~40分掛けて、ストレス(というより、巨大な出来事への思い)のたまっているつらい心情を引っ張り出して解消してもらっていたと。

何年くらいで、そういう患者さんは落ち着きましたか? というようなことをお聞きしたら、「今でもまだいますよ」と。
当時幼かったお子さんなんかは、言葉として表現出来なかったものが5年くらい経ってから症状として出ることがあるそうですね、と申し上げると、先生は少し表情を硬くされた。
「子どもは回復や対応がすごいんです」と。幼稚園の園長をしている同級生とお話ししたとき、「子どもの心のケアだと言って、つっつきまわして余計なことをしているような気がするんですが、そちらではどうですか?」と聞いたら、その通りで、自然に大事でも吸収して徐々に大きな世界で心が成長していく子どもたちに、“あの時はどうだった?”だの薄められていく記憶をわざわざ印象深くしていくことをしているのは、むしろ逆のこと、いらぬことをしている、という返答だったそうです。 つらい記憶を引き出して、トラウマをわざわざつくっている。子どもは大人と違って自分で快復していく。人生のイベントが少ない子どもは、震災という大きな事件も、それはそういう大きなものとして受け止めて、いずれ受け入れていく。そして新たなことをどんどん経験して他のことに心を傾けていくもの。震災は人生の一部となっていく。それをわざわざつつきまわして、傷として刻印する必要はない、ということだろう。
子どもよりも、大人の方が残ることが多い、と。そして、7年間、患者を診てきて「長引く人は、もともと精神的に問題がある人」のような気がする、と。
パニックを起こしやすい、或いは些細なことを気に病むなど、性格的な素因もあるように思う、ということをおっしゃった。
発災後、5日くらいは病院に泊まり込んで必死に災害医療のコーディネイト業務をこなしていた。そして、歩いて3~4分の公舎に帰宅したのは一週間は経っていない頃だったそうだ。

「宮古市のご実家の方へ行かれたのは…?」
「3月21日です」
明確に先生は日付をお答えくださった。それだけ、衝撃の日だったのだろう。
自衛隊などがかき分けてくれた45号線を走り、家の方に向かったが、家に向かう道はガレキに埋まり、車で入って行けない。そこで、土地を知りつくしている先生は反対側からご実家へまわった。
「信じられない。なんで? 何が起こった?」と思ったそうだ。分かっていたのに、頭では理解していた筈なのに認められなかったという。夢じゃないかと何度も思ったそうだ。2階の床まで浸水し、1階部分はぶち抜かれて柱だけ。
思い返すと、昨日・一昨日のようにも思うし、すんごい昔のように感じることもある。時間感覚がおかしい、と。
そして今、宮古市はとても寂しくなったと先生はおっしゃった。店もなくなって人も減った。同級生と飲んで「寂しくなったな」と語り合うことがあるそうだ。
今なお、講演や今後の同様の災害時に役立つために遺していくべき資料作成に余念がない山野目先生。
日本各地の災害に先頭に立って駆けつけ、コーディネイトに奔走。被災者の目線でものごとを見つめ、常に先を見ている先生の背中。振り返って手を差し伸べてくださる力強さを感じずにいられない。その情熱はどこから湧いてくるのか、津波の町に生まれ育った先生が見据える先を、災害医療の在るべき姿を、共に模索していきたいと祈る。

大船渡の海岸

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