2019-06-18
避難~東日本大震災時石巻市渡波小学校で本部運営の経験から~

--東日本大震災で、石巻市渡波小学校で本部運営をされていた山田葉子さんからの寄稿です--

・避難の問題
どのような災害の時にどう行動するのか?をケースごとに考えておく必要がある。
東日本大震災以降、津波避難に対しての関心が高くなっているが、自身の住んでいる地域や、通勤・通学中、旅行中など様々なケースに置いて、被災するという事があるという事を考えることが大切であり、災害も予測できる災害と予測が困難な災害によっても行動が変わるという事を認めることも必要である。
避難行動を考える時にどうしても「自分が行動しやすい」時間帯での行動を考えてしまうが、災害は突然やってくる。
予測できる災害の1つに『大雨』がある。
台風での大雨もそうだが、近年は台風以外でも大雨、それも50年に一度や100年に1度の大雨が降ると、予想されることも少なくない。
大雨の予報が出た時に、その地域の人達はどのように避難行動に繋げているのだろうか?
避難勧告や避難指示が出てからの行動になるのだろうか?
それとも、避難準備行動が出てからの行動なのだろうか?
大雨の予報は突然出ているわけではないという事を改めて考えてほしい。
「前にも大雨の予報が出たけど、家は大丈夫だった」から、今回も大丈夫と考えていないだろうか?
大丈夫だった理由を考えたことはあるだろうか?
家は大丈夫だったとしても付近はどうだったのか?
山沿いとはどこまでをいうのか?
以前、大雨の被害があった地域はどのような地形だったのか?
自分の住んでいる地域はどうなのか?
大雨で被害が予測されない地域だとしても、その周辺はどうなのか?
被害が出た場合に自分の家は大丈夫でも、そこへ向かう道路が冠水や被害を受ける可能性があるのか?
もし、少しでも自分の家が被害が出そうな場合、自分が大雨の時に避難する場所までの道路状況などを把握していないと、予定通りに行動できない事もある。
また、家族に小さいお子さんやお年寄りがいて、移動に時間がかかる場合には、特に早目の避難を現実として考えておく必要がある。
避難場所をどこにするのか?
早い時点での避難の場合は、避難所以外にも親族宅なども候補地にいれることができる。
その場合、自分たちが避難所以外へ自主避難することを近所の人にも一言掛けておくことも大事である。被害が出た時に行方不明扱いにならない事と、近隣住民へも避難することの大事さを気づかせるきっかけにもなるからだ。
「今までの災害で『大丈夫』だったから、避難しなかった」は、たまたまで、次の災害の時にも「大丈夫」とは限らないということ。人生の最後を迎える時に災害の時に難を逃れられた人はとても「運」がよかっただけであるという事に気づいてほしい。

津波が退いた直後の石巻市繁華街

ここで、私の東日本大震災前の災害に関して家族と話していた事や、自身の行動について少し記してみよう。
まず、私が住んでいた宮城県石巻市は地震がよく起きていた地域であるということ。
私が小学校5年生の時には宮城県沖地震(昭和53年6月)がおき、震度3の後に震度5(当時は最大震度が5までだった)を経験。
チリ津波は生まれる前だったが、大人からよく当時の話は聞かされていた。
成人したころには、次の宮城県沖地震が来る確率が年々上昇し、阪神大震災以降はその大きさもどんどん大きく予測されていった。そんな中で次に言われたのが「津波」の襲来についてだった。
先の宮城県沖地震がマグニチュード7.4であったが、宮城県沖地震が約37年周期で起きていることから、いつかは「必ず来る」のが宮城県沖地震であった。
阪神大震災の後には、予測されるマグニチュードがどんどん大きくなり、マグニチュード8以上の予測もあった。その場合には太平洋岸に津波が来ることも予測されていた。
ただ、多くの人は津波の記憶は「チリ地震津波(1960年)」の時の被害状況が多くを占めていたために、「ここは大丈夫」という思い込みが生まれた。また、チリ地震津波の時には到達するまでに時間がかかっていたことで、大津波警報が出てから津波の到達までの時間に対しても、人それぞれ感じ方が違っていました。
被災地では、一度避難したのにまだ津波が来ないと家に忘れ物を取りに行った人…
前の津波の時には家まで来ていないからと、親族の安否確認に出て、家ごと流されてしまった人、家が3階建てで近隣で一番高い建物だったのに、津波が来て慌てて避難しようとして、犠牲になった人、仕事先から家に家族を迎えに行こうとして犠牲になった人等々…
そんな中、私たち家族が津波が来る前に避難所にたどり着いたのは、避難行動について事前に話していたことと「運」だったと思う。
事前に話していたことは、宮城県沖地震は間違いなく来るという事。そして、今回は津波が伴う恐れがあるという事。津波の可能性がある場合には避難をする。避難する場所は「渡波小学校」が指定避難所だからそこに向かう。持って行くものは最小限の物。食料などは3日あれば自衛隊が届くから、自衛隊で手に入れられるものは必要ない。私が外にいる時は自分で身の安全を確保するので、帰ってくるのを待たないで避難。生きていれば合流できるので、渡波小学校で合流…等々を、折に触れて話していました。
また、台風などの被害の報道があるときには、自分たちの地域だったらどこが危険で、自分たちはどう行動するべきか?なども話していました。この時に「家」がある場所だけでなく周辺の道路でどこが冠水しやすく、その場合の「迂回路」の可能性。もし、町外に出かけているときに局地的に大雨が降った時にはどうするのかなど…家にいる時だけでなく、そして家の周辺の事だけでなく、自分たちの行動範囲での考えることができる災害についても広げて考えていました。また、私は東京に行く機会も多かったので、「東京にいる時に首都直下地震」が来た場合など…という事なども考えていました。

津波に被災した石巻市民病院

持って避難するものとしては、兄は透析患者でしたので「透析手帳」と「診察券」「保険証」などの、病院に関するものと、薬、そして「ラジオ付の懐中電灯」でした。母は「店の全財産が入っているバッグ」と、「父の位牌」、「懐中電灯」でした。私は、店の「集金バッグ」でした。
食料などは持つ予定をしていませんでした。なぜなら数日飲み食いしなくても何とかなる!!、自衛隊は3日すればくるし、指定避難所であれば支援が来るのも早いはず!!と思っていたからです。
実際、避難時に持ち出せたのは、兄は「ラジオ付の懐中電灯」と「父の遺影」でした。
薬や透析手帳などは、ちょうど透析から戻ってきたばかりで薬を飲んだばかりだったことから、抜けてしまったようです。
母は予定通りの物を持っていました。
ただ、寒い時の避難なのに防寒用品などは一切持っていなかったので、避難所では寒さが身に染みました。
私はたまたま、外に出ていましたが同じ渡波地区にいたので、地震の後、津波警報(大津波警報)が出ている中で、海沿いにある自宅に戻り、近隣の人と避難場所の確認をしたり、一人暮らしの高齢者を連れて一緒に避難したりしました。
後から考えると、変な余裕がありました。
避難所だった渡波小学校に着く手前で国道を横切るときに、校門前に子どもたちを迎えに来ていた保護者の人達の車が原因で渋滞が起きていて、母が「車から降りて歩いて行こうか?」と言った時も、一緒に避難した隣人が高齢だったので歩道橋を渡るよりも、対向車が切れたら車で校門前まで一気に行った方がいいと考えたり、校門前に着いた時には、車が邪魔になるから(校庭には車が入れなかった)と、近くの葬儀社(地震の時にいた場所)の駐車場へ車を置きに行ったり…
学校へ戻ってからも、親戚のおばさん(70代後半)2人から、「子どもたち(私のはとこ)と連絡取れない。どうしよう…、家に行ってみようか…」などと言われ、おばさんたちが行くよりも私が行った方がいい!!と思い、一度避難した場所から外へ出てしまいました。親戚の家はちょうど学校の裏手と、校庭の向かい側でしたので、「近い!!何とかなる」と、思ってしまったんです。この時、母や兄はいつ津波が来るかわからないのに外に出るな!!と強く私を引き留めました。学校裏手に向かう時にその家の娘と会えたので、おばさんの事を伝えて、学校の外周をまわる形で校庭の向かい側の親戚の家に行き、ちょうど外から帰ってきたお嫁さんにも、おばさんや子供たちの事を伝えて、本人にも避難するように伝え、学校に戻るときに、消防車が目の前を通りながら「津波来たどー!たげどこさあがれー(高い所にあがれ―)」と叫んでいたのを、聞いて思ったのは「どごさ津波。たげどこってどごさあんの(どこに津波が来たの?高い所ってどこ?)」なんて思って、振り向いたら、200メートルくらい離れた緩いカーブの先にあるスタンドとコンビニの看板に下から上にあがっているしぶきを見て、一瞬何なのかと思いましたが、次の瞬間「波しぶきだ!!」と、津波が防波堤を超えた事と、その高さを一瞬にして感じました。急いで校門をめざし走りながらも、学校の周りにあるネットを登ったほうが近道?いやいや、登れたとしても落ちてけがするかも…走った方が間違いない!!と、必死で走って校門を抜けると、まだ校庭や校舎の前に沢山の人がいました。私と同じ消防車の声を聞いていても、津波がどこに来たのか?どんな高さなのかも想像できなくて…走りながら津波が来たことを叫びました。帰ってきた言葉は私が消防車に向かって思った言葉と一緒で「津波っては?」「たげどごってどご?」…私は走りながら「スタンド越えだ!!」と叫びました。渡波のスタンドはみんなが知っていたからです。「どごまで上がればいいの?」と声が聞こえたので「あがれっどごまで上がれー」と叫んで、母たちが避難していた体育館に向かいました。母たちを校舎に移さなくては!!の一心でした。体育館に入ると入り口付近に母たちがいて、私が戻ってきたのを喜びながらも津波が来たこと言う言葉に、どうしたらいいか戸惑っているようでした。わたしは「とんでもないのが来た!!こごでは駄目だ!!たげどごさいぐど!!」と言って、振り向いたら、今は知ってきた校庭は海になっていました。もう少し私の足が遅かったら。校舎の脇で人に聞かれた時、立ち止まって津波が来たことを説明していたら、今、私はいなかったかもしれません…
時間的には母たちを避難所へ連れていけたのは、地震から40分程度。
私が車を置いて避難所に到着したのが、地震から45分から50分。
避難所から一旦、親戚の家に向かったって津波のしぶきを見たのが、55分から60分くらい…
大きな地震が来たら津波が来る!!と、考え家族と話し、行動を決めていたが、実際行動を振り返ると沢山のミスを起こしている。
家族とは私が外に出ていたら、自分たちで私を待たずに避難行動をする!!と決めていました。私は、自分で命を守る行動をする。
私が家に戻った時に、兄も母もそのように行動していました。
では、私はどうだったのでしょうか?たまたま、家から数分のところにいたので家に戻りました。その時に確かに近所の人を避難させたり一緒に避難しましたが、私が地震を経験した場所は、家よりも海から離れていた、鉄骨3階建てで屋上にも出れる葬儀社の1階でした。避難所として考えた渡波小学校はその葬儀社よりもちょっとだけ海寄りでした。
いま、発生確率が上がっている「南海・東南海トラフ地震」の場合で考えると、私はこの葬儀社で垂直避難をするべきでした。
また、学校に避難したときも津波を想定して避難してきているのに、体育館が避難所という固定概念をもっていたため、校舎の上の階に避難することを考えていなかったこと。
何よりも、一度避難したにもかかわらず、かってに「まだ大丈夫」と、外に出てしまったことです。地震から1時間近くたっているのに、自分では落ち着いて行動し、状況の判断ができていると思い込んで、冷静に行動している「つもり」でした。これが後から気づいたのですが『正常バイアス』という事だったんだとおもいます。このように、津波が来ると思って避難しても「まだ大丈夫」と家に物を取りに行ったり、誰かを迎えに行ったりして犠牲になった方がとても多かったです。
「まだ大丈夫」「ここは大丈夫」という言葉は、無意識に自分を落ち着かせるために、出ている言葉で、実際は何の根拠もない事だという事に、この震災から学びました。

近年、各地で大雨により人的被害が出ています。
地震や津波と違って、大雨に関しては事前情報がとてもたくさん出ています。
それでも、犠牲者が出る原因はどこにあるのでしょうか?
ひとつ考えられる要因としては「ここは大丈夫」ということで、家から避難するという選択肢を持っていないことと、「まだ大丈夫」と、避難行動を起こすのが遅れてしまっている事…
「ここは大丈夫」は「今までは大丈夫だった」にすぎず、「まだ大丈夫」は「いざとなったら自分は安全に避難できる」という確信のない自信だという事に気づいてほしいです。
避難をするという事は「安全に命を守るための行動」に移すことです。
「安全」に「命を守る行動」に必要な時間や手段は、人それぞれ違います。
自分や自分たち家族にあった「安全に命を守るための避難行動」を被災前に考えていくことが、とても重要です。避難してなにも起きなかったら「損した・避難しなければよかった」ではなく、「今回は何事もなくてよかった」「家も無事でよかった」と、無事だったことに感謝して、次の災害に向けて自分たちの避難行動や持ち出し物品などを見直すことが、とても大事です。その繰り返しが、いざという時に「自分と自分の大事な人の命を守る」ことにつながっていくのですから…

講演中の山田葉子氏

注:2019年3月に避難勧告などに関するガイドラインが変更になり、以前使用していた「避難準備」「避難勧告」「避難指示」といった表現から、「高齢者などは避難」「避難」「命を守る」と表現が変わっています。

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