2019-06-18
山田葉子氏プロフィール

昭和42年10月石巻生まれ

山田葉子氏近景

高校卒業後2年ほど、東京に就職するも、家業の手伝いのために石巻に戻る。
元々は実家の家業である寿司屋を手伝っていましたが、今回の震災で津波の被害を受けてしまいました。
ただ、地震の後、津波が来る前に避難所である「渡波小学校」の体育館に家族と避難をしましたので、同居家族の安否は確認出来ていましたが、津波によって、外界と一晩断絶されました。
翌日、徒歩で通常でしたら2~3分の所にある「渡波支所」に行きましたが、支所の職員は被災状況や、近隣の避難所の状況確認をする気のなさを、目の当たりにし、行政をあてに出来ない事を痛烈に感じ、自分で出来る事をしていかなくてはならないと強く思いました。

私は、当時同じ敷地に住んでいた母(71歳)と兄(49歳・透析患者のため障害1級)と、隣の一人暮らしの80代のおばあちゃんと、避難していました。
2日目は、支所に状況把握に行ったほか、自宅周辺へ被災状況の確認に行ったりと、日中は状況把握をしていました。(自宅まではガレキでたどり着けませんでした。近くまで行けましたが、その時は自宅が流されてガレキになったように見えたので、帰れる家が無くなったと思い、避難所生活が長期戦になる事を覚悟しました。)その中で、近所の方々との声かけなどを、意識して行っていました。

2日目の夜は、避難所の体育館本部でのお手伝い(水や衛生用品・薬の管理)
3日目には、兄を透析に行かせるための、タイミングが分からずに、消防の人からは「救急搬送」とは言われていましたが、どうしていいかわからずにいた時に、体育館の真ん中に「看護師」さんらしき方々がいるのを見つけて、相談にいったら、看護師さんから、これだけの避難者(当時・体育館と校舎を合わせて、2,000人位)がいるから、透析患者が、どこの場所に何人いるかを調べて。と、言われて動き出したのが、「意識して」動き出したきっかけです。

そのまま、日赤の医療チームが来るまでの間(19日ごろ)まで、看護師さんのお手伝いをしていました。内容としては・・・
*受付のような感じ・・どんな症状か。薬だけの場合は出せないので、納得して頂けるまで説明(中には薬の無い不安から、罵詈雑言をあびせられましたが、看護師さんがそれの対応まですると、処置できる方まで出来なくなるので、私が対応)
*救急車の要請(携帯などの通信がマヒしていたので、救急車を近くの消防所に呼びに行く。
ただし、要請しても何時来るかはわからなかったため、自衛隊の方にも、石巻方面に行く前に避難所に寄って頂き、先に来た方に乗せて搬送して頂く手配。
*医療チームが入った後は、避難所本部で、人が足りないので、手伝ってほしいと、市の職員と学校の先生方に頼まれて、そのまま、避難所本部の手伝いとして運営に係わる。
 
市の職員が、日替わりで、先生方も学校の本来業務(子供の安否確認など)にる中、被災当時からの状況と、避難所の中を知っているものが、避難所本部の中には私だけになり、市の職員も、他の行政機関からの応援の方が避難所に入るようになって、撤退していき、私が応援職員と一緒に本部運営を続けるようになりました。
ただ、応援職員も、一週間ごとや2週間での交代になるので、私以外に避難所全体の流れや、自宅避難者の方との係わり、行政との連絡など、わかるものがいなく、被災者で避難所に生活しながら、避難所本部の運営を続けてました。
地元で寿司屋を亡くなった父(平成4年の代から営業していたので、お客様や、祖父母のかの知り合いや同級生の家族等が多かったので、とても心強かったです(最大2000人程いた避難所ですが、約2/3くらいは私を知っている方だったので…)
現在は、避難所で助けてくれた、ボランティアの団体(全国訪問ボランティアナースの会キャンナス)が石巻で継続して支援をしていくために立ち上げた「一般社団法人キャンナス東北」の地元採用として、避難所の時とは違った「地域コミュニティー」を仮設住宅や在宅の方々と守り・作るお手伝いをしていました。また、宮城県や石巻市から「仮設住宅を中心にした健康支援事業(リハビリ支援事業)」や「保健コーディネーター事業」を受託し、看護師(保健師)やリハビリ職が活動するサポートなどをサポートしていましたが、27年から仮設住宅からの恒久的住宅への再建を支援する業務に関わっています。
また、仮設や在宅・地域の垣根をなくして住民さんが「被災前にはやっていたことや、自分がやりたいこと、やってあげたいこと」を出来る空間(場)として、コミュニティーサロンの運営を団体として行っていましたが、28年から住民主体団体へ移行しましたので、後方支援としてサポートしています。

講演中の山田葉子氏

また、被災を風化させないように、被災後の避難所での生活の事や、避難所近隣に住んでいた「在宅避難者」のこと、支援者と被災者・行政との役割など、自分が体験し気づいたことをお話しするために、講演活動や語り部をさせていただいています。
この活動が縁で、29年11月に被災地で震災伝承を行っている人たちが集まってできた任意団体「3.11メモリアルネットワーク」の一期目の副代表となり、広域での震災伝承活動を行っている人たちのネットワーク構築に関わり、岩手、福島、宮城から理事を選出するにあたって、一個人の活動に戻った。
地域防災の講演などで講師に呼ばれることも多いが、地元の地域防災に還元できていない事を課題に感じている震災伝承の仲間と「石巻震災伝承の会」を立ち上げ、副代表となる。

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