2019-09-19
避難所運営〜東日本大震災時:石巻市渡波小学校避難所本部運営の経験から~

--山田葉子さんからの寄稿その2--

・避難所・避難生活の問題
東日本大震災では、震災前に地域の指定されていた公的な建物が被災し使用できなくなったり、建物が残っていたとしても津波の被害により道路にがれきが溢れたり、道路自体が使用できなくなっていたりして、たどり着けずに近隣の建物に避難しそのまま避難所として使用した場所もあった。その中には地域の神社や集会場、会社の建物や保育園、ホテル(モーテル含む)、など多岐にわたり、避難所の実態を把握することが困難でした。家族がどこに避難したかもわからない人たちも多かったです。
また、指定避難所となっていた場所でも、津波被害の大きかった場所では、施設の一部が使用できなかったり、敷地内にがれきや被災車両、そして犠牲者の姿がある場所もあった。
津波の水が引かずに、ボートやヘリコプターなどで救助された人たちは、自分の住んでいた地域ではなく、被災が少ない(津波が来なかった)地域の避難所へ搬送されて、その場所で避難生活を送ることになりました。

今回は、私が避難した「石巻市立渡波小学校」の避難所の様子を中心に書き出してみます。
津波は地震発生から約1時間後に、石巻市渡波に襲来しました。
津波が学校へ押し寄せた時には体育館も被災する可能性があったので、高齢者や子供たちに体育館の2階の両側にあった、窓やカーテンを開閉するためのスペース(幅1mあるかないか程度)のギャラリー部分にすし詰め状態で登ってもらい、階段も含めて出来るだけ体育館の中でも高い位置に避難するように呼びかけがありました。私のように比較的若い世代(当時40代半ば)などは、ステージの上にあがっていました。今回の津波では、避難所になった体育館や学校そのものが壊滅的な被害を受けて犠牲になった方も多かったですが、渡波小学校の体育館は震災の10年ほど前に建て替えられていて密閉性も高く、海側にあった体育館の裏側にはボイラー室があり、また校舎と体育館を結ぶ渡り廊下が瓦礫を体育館のガラスを壊すのを防いでくれたおかげで、体育館には津波が勢いよく入ることもなく、隙間から若干体育館の床に水が染みてくる程度で済みました。ただ、停電していたのと、下水から水が溢れてトイレが使用できない、手洗場の配管がずれて使用できないなど、避難生活をするには支障が出ていました。ただし、停電以外の被害状況を把握するのは被災当日ではなく翌日以降でした。当日はトイレが下水の逆流によって使用できないという不便さ以外はわからなく、津波さえ治まればトイレも使用できるようになると思っていました。

避難所=体育館と思って体育館に避難しましたが、私が避難した渡波小学校は備蓄倉庫が校舎の3階にあり、体育館には備蓄用品も備蓄トイレもない状態でした。その状況で避難生活が始まりました。当時体育館には多くの住民と共に、先生は父兄が迎えに来られなかった子供たちと一緒に建物の安全が確保できたことから避難していました。避難者の中には渡波小学校の新旧のPTA役員だった父兄も数名いたので、先生方と協力し津波が来る前に近所のスーパーから届けられたパンを先に「高齢者」そして次に「子どもたち」という順番で分けてくれたことにより、混乱が少なかったように思います。校舎のほうは津波を見てから逃げてきた人が駆け込んできたりと、混乱した状態だったと聞いています。2階のベランダから消火の時に使うホースやカーテンなどで、流れている人を助けたりしたとも聞いていますので、体育館よりも直接津波の威力を見たので恐怖を感じたようです。
体育館では時間の経過とともに、津波が体育館を壊すようなことが無いと思った頃に、トイレが使用できなくなった(津波の逆流の為)ことに気づきました。そこで先生やPTAの方々が、ステージの脇に体育で使用するビブスなどが入った「衣装ケースを用いたトイレ」を準備してくれて、暗幕で目隠しを作り、足元を懐中電灯で照らしながら開閉してくれたりしました。この衣装ケースでのトイレは、私が現在震災伝承をするきっかけにもなりました。想像してください。一番大きな「ふた付き」「滑車」がついた衣装ケースです。高さも幅もあり、またぐのも大変。そしてなかには不特定多数の人たちの汚物があり、バランスを崩したら…と思った時の恐怖。バランスを取ろうと衣装ケースに手をかけると、滑車がついているので後ろへ動く…。私たちの年代でさえ大変なのに、高齢者や子供たちがその衣装ケースで用を足すという事の大変さ…。避難者の多くは避難生活の中で一番大変だったことは「トイレ」というのも、この経験があったことからだと思います。この「衣装ケースのトイレ」は3日目まで使用しました。体育館のトイレをプールに溜まった水(津波の海水)で掃除し使用できるようにしましたが、断水と流れにくい(後から地盤沈下の影響と分かった)ので、大便の時だけ流すこと。トイレットペーパーは流さない。というルールで、流す水はプールに溜まった水をバケツで汲み置きし使用することにしました。
ただ、普段からの使用済みのペーパーを「流す癖」を急に変えることは難しい人たちも多かった。間違って紙を流してしまった時には詰まってしまい、次にトイレを使用する人がその処理をすることになり、イライラの原因にもなっていった。その後仮設トイレが設置されたが、最初に設置されたのが「和式トイレ」だったために、高齢者を含む多くの人たちからは「洋式トイレ」の設置を求める声が高くなり、洋式トイレも設置された。一番多い時で約30基の仮設トイレが設置され、トイレ掃除などは避難者が交代で行っていました。この仮設トイレは、小学校に避難している人たちだけでなく、学校に物資を受け取りに来る被災者や、ボランティアなども使用していました。この仮設トイレは避難者が少なくなった時に避難者から「掃除をするのに多くて大変」という声があり数を減らしましたが、残ったのが洋式トイレのみだったことで、子どもを持つ避難者から「和式も残してほしかった」という声があがりました。仮設トイレの設置会社によって洋式トイレと和式トイレの取り扱いが違ったので、どちらかしか残せなかったのだったが、和式トイレを残したい理由は「子どもたちに誰が座ったかわからないトイレに座らせたくない」ということでした。家族以外の人が使用するトイレ。潔癖症という事ではなく「感情」に近いものでしたが、それを口にできたのも被災から数か月の月日が流れたからだったと思いました。最初は必要にかられて準備した「衣装ケースのトイレ」から、自分たちでルールを作りながら「だましだまし使用した被災したトイレ」、長い避難生活を支えてくれた、どんな悪天候でも外でしか使用できない「仮設トイレ」…災害時のトイレの問題は、どの災害でも共通の課題であり、災害備蓄として家庭・地域・行政できちんと考えなくてはいけない事だと、この経験で学びました。

避難生活を行う上で、自分たちのスペースの確保はとても大事なことです。
避難者に中には高齢者や、障がい者、妊婦や乳幼児を含む子どもたち。家族が布団ごと避難させた寝たきりの方や、介護を必要とする人たちもいました。校舎の一階部分は教室のガラスやドア等を壊しながら勢いよく津波が流れ込み、校舎の一階の教室にあった机や椅子、外から津波と一緒に流されてきたがれきと化したもの、廊下にあった手洗場のシンクなどが廊下部分を埋め尽くしていました。昇降口も靴箱や外から流れてきたもので、ぐちゃぐちゃになり、3か所あった階段の登り口にも瓦礫が重なり、人が歩くのが困難な状態でした。しかし、2階以上は津波の被害を受けなかったことで多くの被災者が2階、3階で避難生活を行うことができました。
石巻市渡波小学校には震災当日の3月11日には体育館に約400人、校舎2階、3階部分に約400人の、合わせて約800人が避難してきていたと言われています。ただ、体育館に避難していて校舎がどんな状態なのかは見当がつきませんでした。翌日には体育館に約800人、校舎に約1,200人、合計2,000人の避難者で座るスペースを確保するのがやっとの状況でした。校舎では教室にあった机などを廊下に出したり、教室の端に置いて荷物の置き場所にしたりして、スペースの確保をしていたようです。体育館の中であれば、なんとなく顔も見れますので、体育館に避難している知人を見つけることは可能だったかもしれませんが、校舎は教室に避難していますので、すべての教室に誰がいるのかを把握することは困難でした。私の近所の老夫婦は体育館に避難していましたが、3日目以降に校舎に避難していた同居のお嫁さんがやっと体育館に家族がいることがわかって移動してきました。同じ避難所にいても、混乱している状況下では自分の家族を探すのも難しかったです。私は仕事の関係で私を知っている方も多く、地域も知っていたので避難所で家族や知人を探しに来た人に声をかけられることも多かったので、本人の居場所がわからなくても、その近所の方のいる場所を教えたりして、人を探すお手伝いなどもしていました。探している人の状況を伝えられればいいのですが、行方不明になっている家族の事を探している知人に会った時には、無事に見つかってほしい!!と思いながらも、尋常ではない安否のわからない人の多さに、自分の気持ちを強く持つこと、無理にでも冷静さを持つことを無意識に行っていたようです。
校舎が避難所になると、避難所に入らなかった保護者と避難者でも課題もありました。少し落ち着いた頃に保護者の方が教室にあった子供たちの物を取りに来た時に、自分たちの子どもの机がどこにあるのかわからずに、少なからず心を痛めていたのも印象に残っています。避難者はその時々に自分たちの生活の場を整えるために、その場にあるものを移動しますが、机などは使用していた人たちがいてその人たちにとっては大事な物も入っているかもしれないということも考えて、移動もしくは使用をしなくてはいけないのだと考えるきっかけになりました。
津波の被災地域の中にあった避難所の多くは、被災した建物で避難生活を行うことになり、避難者は避難した教室でそのまま避難生活をおくっていました。体育館では、夜が更けてから、これ以上の浸水がないと考え床を拭いてギャラリーに上っていた人たちにも降りてくるようになりました。その時に座った場所がそのまま避難スペースになりました。夜が明けてから、難を逃れた人たちがどんどん避難所に避難してきて、家族や親族、知人を見つけるとその人と同じスペースや教室に落ち着き、空いているスペースを見つけるとそこに居場所をつくったりしていったので、地域別の区別などは一切できませんでした。
12日の避難者の名簿の作成も開始しましたが、職員室や事務所も1階にあり筆記用具なども不足していたのもあり、紙やペンなどをかき集めて記入しました。内容は名前と住所のみで、家族構成や既往歴などの情報は記入していませんでした。その後、体育館では情報伝達や食事や物資の配給などのために班割をしました。校舎の教室ごとの代表者と体育館の9つの班の代表者で朝と夕方に班長会議を行い、情報共有や避難所のルールなどについて話すきっかけをつくっていきました。
避難者名簿は一度石巻市役所へ持っていった後で、各避難所の名簿と一緒にコピーで各避難所に閲覧用に戻ってきましたが、手書きで書かれたままで読みにくく膨大な避難者で、自分の家族や知人を探すのはとても困難でした。同じ避難所にいても誰がいて、どこの教室にいるのかを気づくのは、偶然会うか誰かから近況を聞かないとわからなかったのも、多数の人が避難していたからだと思います。体育館と校舎では行動範囲も違いますし、家族や親族を探すことはあっても、知人の消息をすべて探すことは、避難者となった時にはとても難しい事でした。時間の経過とともに不安が増していき、一人でも知り合いが見つかると安堵し、その一方で家族を亡くした人を近くで見ることで、積極的に知人を探すことで悲しいことを聞くことになりそうで、不安にもなりました。私は避難所で沢山の知り合いの状況を知ることになりましたが、知り合いと思われる方に声をかけられた時に、その方がどなただったか思い出せませんでした。その方は母や兄の事も知っていましたし、顔は知っていたのですがどうしても思い出せませんでした。

最近の避難訓練では避難所設営や避難者名簿の作成、部屋割りを地区ごとで決めているケースがあると思いますが、それができる災害とはどんな災害なのかを考えたことはあるのでしょうか?私が経験した東日本大震災の時の渡波小学校では、そんな余裕はなかったし、翌日以降に地区ごとに部屋割りを考えるといったことも出来ませんでした。廊下まで避難者が溢れ、人の入れ替わりも激しいなかで、どこの地域の人がどこのスペースにいるのかの把握さえ困難であり、一度自分のスペースを決めると、その場所からの移動はもっと困難になっていった。なぜなら、自分のスペースを決める時に、避難者の多くは親族や知人のそばで避難生活を始めていた。その場所を移動して地域ごとに部屋割りと言われて移動できるでしょうか?また、同じ地域に複数の避難所が出来た場合にどこの誰が避難しているかを把握するのも難しいでしょう…誰がどこにいて、誰が無事で誰が行方不明や犠牲になったかを把握するのさえ難しいのですから…
私は約2畳のスペースに大人6人(家族3人と一緒に避難したおばあちゃん、兄の元嫁と父方の親戚)。隣のスペースは、お向かいの高齢夫婦で旦那さんは寝たきりで布団ごと息子さんが避難させて、3日目に教室側に避難していたお嫁さんと合流できた家族。後ろのスペースは家から80メートルくらい離れた家に住んでいる3世代家族。私が住んでいたのは幸町で、他の2家族は長浜町。地域ごとに部屋割り・スペース割をしていたら一緒にはなれない人たちでした。また、近隣に数か所避難所ができていたので、同じ幸町のひとが同じ避難所に避難しているとは限らない状態でした。町内会での住民の人数も違います。
予想できる災害で避難出来る時でしたら可能なことも、突発的災害の時には対応できない事が起きるという事を認識したうえで、防災訓練や避難所運営訓練などを行い、「どう応用するか?」を考えておくことも大事になります。

翌日に校舎にあった備蓄倉庫から若干の水や衛生用品などを体育館にも持ってきましたが、避難者全員が口にできるだけの水はなく、子どもや高齢者の薬の時に30CC程度を計量カップ(校舎の家庭科室から持ってきた)で量って渡していました。
自衛隊が水を運んでくれたのは3日目です。ポリタンクも用意されたが避難者全員に500ml渡すことも困難な状態は数日続きました。2000人の避難者に500ml渡すと考えた場合1000Lの水が必要で、20ℓ入りのタンクでも最低50個必用になり、その数を確保することも困難だった。また、それを分けるための容器も必要になります。給水車はいつ来るかわからないのと、避難所には入れなかった(入らなかった)被災した自宅で避難生活をしている人たち(在宅避難者)も、給水情報が入らない事から避難所に給水を求めに来るので、避難所にいる人たちに欲しい分だけ渡すことが困難でした。
情報という面では、新聞の配送が避難所へ開始された時には50部であったので、避難所の各教室や体育館の各班へ1部ずつ渡したが、数十人で1部しか見られないために、読みたい人に渡りきるまでに時間がかかり、新聞を読みたくても老眼鏡などがなく、読めない人も多く見受けられました。しかし、避難所にはそれでも新聞を含めて市役所からのお知らせなどが届いていましたが、在宅避難者には新聞の配送はもちろん再開されていないし、市役所からの情報も直接は入って来ていないのが現状でした。被災した家で避難生活を余儀なくされた人たちにとって避難所は、情報取集の場であり物資の支給場所にもなりました。避難所へ物資や水などを受け取りに来た時に、避難所本部の前に貼りだしてある市役所からのお知らせや、閲覧用に置いてある新聞などで情報収集をしていくのですが、その閲覧の新聞も持ち帰ってしまう人も多く、希望者が全員読めるような状態でもありませんでした。停電でテレビも見ることができず、新聞も手に入らず、ラジオからも自分たちが住んでいる地域に関係するニュースが流れているわけでもない…人づてに聞く情報が自分たちの住んでいる地域の様子を聞く唯一の手段でもありました。配給に並んでいる人たちはその待ち時間を活用して…
その情報の中には「医療機関の再開」や「道路の開通状況」、「給水情報」、「自衛隊風呂の場所や利用時間と送迎バスの時間」、「炊き出し情報」に「避難所でのイベント情報」など、多岐にわたっていました。

渡波小学校の近くには「石巻市渡波支所・公民館」という、もう一つの避難所がありました。この渡波支所に翌朝に行ったときには約200人が避難していたと聞いています。この施設にいた支所の職員などに、渡波小学校に多くの避難者が来ていて大変なことを伝えましたが「外の安全が確認できていないので、外には出ません。学校には先生方がいるので任せています」と言われました。そして、渡波支所に避難してきた人たちの朝ごはんの準備をしていました。私はその職員に「学校の先生たちは保護者が迎えに来られなかった子供たちの対応をしながら、避難者の事をやってくれている。学校にいない子供たちの安否確認もしなくてはいけない。」と伝えましたが、それでも「外の安全が確保できていない」と言われました。私自身が渡波小学校から瓦礫をよけながら渡波支所に行き、外には何とか助かった人たちが避難所を目指したり、家族を探すためにたくさんの人が外を歩いていました。渡波支所にも多くの人が向かってきている中での支所職員の発言で、私は「市の職員をあてにできない」と、強く思いました。支所と公民館で10名以上の職員がいたと思いますが、徒歩数分のところにある避難所にさえ様子を見に来ることを出来ない…
それでは、地区内の被災状況を把握し本庁に報告も出来ない…
避難訓練などでは、役割に添って市の職員も関わっていると思いますが、突発的な災害が起きた時には、市の職員がすぐに駆けつけてくるのも難しいですし、避難訓練に関わる職員が必ずしもその避難所にきてくれるとも限りません。

被災者の中には、渡波小学校や渡波支所に避難しようとしたけど、道路にあふれた瓦礫を超えることができずに、被災した渡波保育所や流出地域にあった神社で避難生活を開始した人たちもいました。
渡波小学校を含む渡波地区はほぼ全域が冠水し、沿岸部では基礎ごと流される家も多く、避難所付近の家でも2mの津波が押し寄せ、一階部分が流れてきたがれきや水流によって壁を突き抜けている家も多くみられました。その被害を受けた家や車、庭木などが道路などにあふれている状態でした。
始めは、避難所にいる人も在宅で避難している人たちも「生きて再会できたこと」「家が無事だった」ことを、お互いに感謝しながら喜びを分かち合っていた。犠牲になった人・行方不明になった人、家を流された人、家の形は残ったが住める状態ではない人、被害はあったがかろうじて2階部分で寝泊まりができた人、被害はあまりなかったが被害の大きかった親戚を受け入れた人…さまざまな条件の人たちが避難所周辺には混在していた。
ライフラインは全滅。周辺の道路は瓦礫に覆い尽くされ、スーパーやコンビニなど商店なども大きな被害を受けていて、食料を含めて生活に必要な物資の購入は不可能であった。
避難所で生活していた人たちへは、食糧含めて生活に必要な物資は届くし、医療を含めてボランティアなどの支援も入りやすく、様々な支援が受けやすかった。一方で避難所以外で避難生活をおくっている人たちは、自分たちですべてを確保するために瓦礫を超えてでも避難所に通わなくてはいけませんでした。避難所によっては物資や食料を配給する地域を制限するところもありましたが、渡波小学校では町内会を制限することはしませんでした。それにより渡波地区全域のほかに「鹿妻地区」や山を越えた「稲井(井内)」地区からも、物資を求めて、最大で1000人を超える人が、配給に並んでいました。渡せる物資は本当に少なかったですが、9時から12時までの配給に7時前から並び始めていました。
石巻市でも渡波地区は電気の開通や水道の復活、スーパーやコンビニの再開にはとても時間がかかりました。また、被災した家で生活するための工事関係者の確保も被災地全体では多くの時間がかかりました。
ライフラインが復活しても、被災した家を生活できるようにするまでには多くのハードルがありましたが、そこで生活する人への支援は東日本大震災当時には考えられなかったことでもあります。最近の災害時には在宅被災者への支援も考えられるようになってはきましたが…災害が起きた時に避難所で生活をするのか?被災した家で生活するのか?それとも、被災した地域を離れた親戚宅で生活をするのか?これは、その時の状況で変わりますが、みんな「被災者」であることには変わらないという事を、ぜひ被災前から考えてほしいと思います。

最後に、私が上記で書き出したものはたくさんの被災地で起きた事の「一つ」でしかありません。私は被災前に「避難行動」についてと、災害で家を無くした時の「仮設住宅や復興住宅への入居要件」「罹災証明や被災証明」「義援金と支援金」などは考えていましたが、「避難所での長期生活」はあまり考えてはいませんでした。なるようにしかならないと思っていたからです。災害前にもっと考えておけば、もっとたくさんのことに対応できたかもしれませんし、被災者の要望にも応えることも出来たかもしれません。現在は、様々な災害を経て、多くの避難所に関わるガイドラインや在宅被災者への支援についてなどの情報が溢れています。この内容を知っているのかいないのかでも、災害に合った時に自分の身に起きるかもしれない事を想像しやすくなるかもしれませんね。
皆さんは災害ごとに避難する避難所を考えていますでしょうか?避難訓練は災害ごとに避難所を変えることを考えて行動していますか?
避難所にはどのような備蓄用品があり、どこで管理されているかはご存知でしょうか?
備蓄用トイレの数や使用方法はご存知ですか?
大地震などでは断水に目が行きやすいですが、トイレの配管が問題ないかどうかの確認ができない時に、水が出るからといってトイレは使えると思っていませんか?
夜間や週末に災害が起きた時、避難所となる建物の鍵は誰が開けてくれるかご存知ですか?
防災訓練の時に率先して動いてくれている人たちが留守の時には、誰がその代りになれますか?その人はどんな役割があるかをご存知でしょうか?
避難所で生活する場合や、被災した家で生活する場合、親戚宅へ一時避難する場合など、複数の可能性があることを気づいていますか?
自分がどの立場になるのかを含めて、みんなが初めてのことです。訓練では起きない問題が起きるのが災害であり、被災する事であり、避難者になることです。被災時に自分以外の事に関われるのは「その人が関われる状況」でいられないと難しいです。そして、関われない人には他の人にはわからない「関わることができない状況」があるんだと思います。そして、最初に関わった人が最後まで関わることも難しいことです。
どの立場になるかはわかりませんが、私は「自分が出来る範囲」で「できる事」を行っていくことを、被災し避難所運営を行っている7か月これだけを大事に行動してきました。他の人に何かを求めて動いてくれないと辛くなりうっぷんも溜まりますが、求めなければうっぷんも溜まりません。避難所は必ずなくなります。すべての避難者の要望に応えるのも不可能です。出来ないことは出来ないという事も自分に負荷をかけない1つです。

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