2012年1月東日本大震災鍼灸マッサージ支援交流会にて〜日比理事長が声をかけて、災害支援に関わった団体がはじめて横断的な会合を持った。はりネット誕生前夜、その発想の原型がここに実現した。
(この記事は、メルマガ企画「突撃! となりの鍼灸院」(仮題)のインタビュー記事(第一弾)です。 文責:メルマガ担当・フジヌマ )
2019年2月2日。翌日に節分を控えた平成最後の冬の終わり。
前日は東京も「これが日本の冬じゃ~」という勢いで冷え込み、冷たい風が吹き荒れたのだが、嶺先生とお会いしたその日は、恐ろしいほど清々しいコバルトブルーの青空が広がり、まるで今日のインタビューを祝福してくれているかのようであった。(そんなに御大層なことだったのか!)
首都圏事情にうとい田舎者が、待ち合わせ場所がさっぱり分からなくて、「こ…ここは、いったいどこだ」「俺はどこに迷い込んでいるんだ!」と右往左往し、もしかして、待ち合わせ場所で嶺先生がご心配されているんじゃないかと真っ青になってウロウロしていたら、慣れた様子で普段着の嶺先生がどこからともなく颯爽と現れた。
「すみません、遅くなって。電車を一本逃してしまいまして」
新宿駅西口から一本通りを挟んだルノアールという喫茶店で、お話しをお伺いした。
突撃したは良いが、撃沈してはいかん、といろいろ探りながらご質問させていただいたのだが、概ね快く多くのことをお話しいただきました。
嶺先生の印象を申し上げると、実はお会いするのは今回が初めてではなく、ボランティア以外の学会等でしかお姿を拝見していないのだが、総じて言えるのは‘ジェントルマン’である、ということだ。医療者というよりは、聖職者のような静けさを感じる。声を荒げて激怒することがおありになるのだろうか、と「もしかしてニンゲンじゃないんでは…」という空気を感じてしまう。
しかし、お話を伺うにつれ、ああ、良かったニンゲンだった! と確認するに至るような、教員という世界でご活躍されている日常が浮かび上がって来た。
まず、新設校は教育機関ではあるが、利潤追求の「企業」であるという側面がある、とおっしゃる。生徒さんを集めて授業料を徴収し、それで教員その他への給料を支払いする。それは、もちろんその通りと思う。
しかし、学校側がそういう側面を抱いているということは、弊害的に生徒さんの方からもクレームや批判として返って来ることになる。
「金払ってるんだから」という「消費者」意識が強い生徒さんへの対応に苦慮なさっているご様子がうかがえた。
鍼灸への愛情ゆえ、鍼灸の探究心が貪欲で、知識や技術を少しでも身に付けたい、という純粋な思いで通っている生徒さんもいるが、多くは「何となく」、「他に行く学校がなかったから」、「手軽に取れる国家資格が欲しいから」といった理由で鍼灸学校に入学する人が多い、と先生はおっしゃる。そして、それは恐らく今の鍼灸学校はどこも同じ状況であろうと思われる。
それでいて、実習の時間に「あの人とは組みたくない」という、様々な人の体に触れ技術を身につけるという実習自体の目的と乖離するクレームがあったり、嶺先生の学校ではないが、偶数の生徒さんがいるクラスで、一人欠席者がいた日、実習で3人ペアという状態がどうしても出てしまった時に「お金を払って授業を受けているんだから、3人ではなく、ペアでやる権利はある筈だ」と主張する人もいる。
総合的に、生徒さんの質の変化、自分たち教員のそれに対応できる教育的な能力の欠如、世代的に、まず自分の権利を主張することが第一義となった社会の中で、一度働いて鍼灸の世界に入って来た方々の消費者権利意識の高まりと、ゆとり世代の学力低下の現実。その双方に先生方は苦悩されているご様子が伝わって来た。
国家試験が年々難しくなっていると言われているが、基礎的な問題で合格点が取れるようになっていること、問題レベルが上がっているのではなく、ちょっと質問の仕方が変わったとか、ほんとうに難しい問題は数問程度であるということ。
今、業団も、メディアも、学校も絵に描いた餅の如く、鍼灸は美容鍼やスポーツトレーナーなどで儲かるような宣伝をするため、実情を知らずに入って来てしまう生徒さんがいるとおっしゃる。厳しい現実を知らせないというのは果たして如何なものだろうか、と。
それから、教員の質というものに対しても、先生は厳しい目を持っていらした。
現在の教員の限界。病理学者じゃない人間が病理学を教えている、一度その世界のプロになっていないと人に教えられない―と。もちろん、先生方は受け持ちの教科に関して一生懸命調べたり本を読んだり、研鑽されていらっしゃる。
嶺先生は、現在都内の専門学校で教員をなさっているが、以前は同系列の名古屋の学校で教えていらした。当時は臨床家としてもご活躍され、生徒さんに教えるということに対して間口を広げ、知識だけではなく実践という身を伴うよう、往診や教え子の治療院での施術など、忙しい日々を過ごされていた。
実は最初、まずお聞きしたのが「鍼灸師になったきっかけ」「何故、鍼灸師を目指したのか?」という質問だった。それに対して、嶺先生は腕を組んで一呼吸置かれた。
「よく分からない」と。
最初、頭にあったのは、海外の医療過疎地で役に立ちたい、という思いから始まったのだと。それが具体的に青年海外協力隊や国際医療団のようなものは浮かんではいなくて、個人で行くのか、そういう組織に所属するのかということすら曖昧なまま。
30歳を過ぎて、はり・きゅうの世界に足を踏み入れた。当時、お子さんがまだ幼く、奥さまが働きに出て、先生はお子さんの面倒をみながら学校に通われたというお話しに、「おお! それでは、奥さまのご理解・ご協力のお陰で我々は嶺先生をこの鍼灸界に得ることが出来たのだ!」と先生のご家族には心から感謝した次第でございます。
そして、ここからがちょっと異色の経歴、いや、異色の思考回路と申しますか…。
先生が鍼灸学校の3年生になった頃、「治療者には向いていない」と思ったそうだ。「そんなの、分かるもんですか?」。「分かります。治療者として能力がないと思ったんです」と。
技術的に旋捻などの指の動きが自分の思い描いた通りに動かせないことや、精神科医療の先生に習ってみて感じたことなどで、先生は治療家としての道はすでに選択肢から外れていたのだそうだ。
では、何をしようかと考え、自分で教材屋でもやるしかないかな、と思っていた。セイリンさん等業界資材関連会社で働くということをそのときには思いつかなかったのだと。そんなとき、同じ道を志していた親友が「新しく出来る学校の教員にならないか?」と声を掛けてくれたそうだ。そのご友人自身は教員を志しているわけではなく、先生にご紹介してくださったのだとか。
先生はそのご友人のお陰で進むべき前途が開けた。治療者になったとしても自分の年齢からすればしっかりと臨床ができるのは10~15年、研鑽したとて腕も大したことはなく、診られる患者の数は限られている。鍼灸学校に通う前、鍼灸院の患者だった頃から鍼灸学校時代を通して、鍼灸の可能性を感じ、優れた医療であることは実感していたものの、自分が出来る限界を考えられた。
「はり・きゅうはいいものだ。自分の手は2本しかないけど、もっと優れた、自分にできない治療を多くの患者さんにできる人を育てよう」
その後、教員養成課程2年を経て、先生はいよいよ教員としての第一歩を踏み出された。
名古屋に出来た鍼灸学校で、大変素晴らしい先生方との出会いがあり、たくさんの刺激を受けられながら、そこで7年間教員として過ごされた。その間に、幼かったお子さんも成長され、当時の事務長さんは家族のことを慮り、より先生のご実家に近い新宿の学校への転勤を打診してくれた。
現在は、鍼灸学科の学科責任者というお立場で、科の教員の先生方をまとめる役割をこなしながら、あらゆる教科を教えられる先生。
教員として過ごされてきた中で、何か生徒さんとのエピソードで印象に残ることはありませんか? との質問に、ちょっと暗いお顔をされ、悪いことが多いですね…と。ただ、と一段、静かな声で先生が語り出したことがありました。
「名古屋時代の生徒に、大学を卒業して鍼灸学校に来た子がいました」と。
国家試験の結果を見届けることなく新宿に移ってきた先生は、その生徒のことを心配なさっていた。きまじめで、潰れてしまわないだろうか、国試も受かるかどうか危ぶまれるような生徒だったそうだ。それが、卒業したら理学療法士の資格も取りたいと言っていたそうで、しまいには呆れていたが、その生徒は国試も見事に受かり、理学療法士の養成校を卒業し、先生に電話で「お陰さまで理学の学校も卒業できました。あとは国試だけなので、頑張ります!」と電話をもらったときは、ほんとうに良かったと胸を撫で下ろされたとか。
こちらで評価して見積もっているけど、評価される側の生徒は、それを超えて大きな力を発揮してくれることがある。恐らく、それが教員にとっての嬉しい誤算であり、醍醐味であり、ヒトを育てる喜びでもあるのだろう。
もう一人、先生が新宿に来たとき、2年生だった生徒のこと。その生徒さんは、運動はよく出来る体育会系の子で、かつて大会で入賞するほど、運動能力はあるが、勉強の方はあまり振るわず、一度国家試験を落ちて、4年掛かってようやく資格を取得したそうだ。
ただ、その子は素直で、学びたい気持ちはしっかり持っていた。そして、はりの技術は上手かったという。教員の先生方が揃って、あの子が国試さえ受かれば、良い鍼灸師になるのに、と思うような人柄の良い子だったらしい。
一度試験に失敗したときも、聴講しに来なさい、というと素直に授業を受けに来て、一生懸命頑張ったのだとか。
そして、遂に翌年、国試合格!
現在は、その人柄や、体力で、臨床現場で活躍しているという。
先生は「見る目がなかった」とおっしゃったが、いやいやいや、それは違う。そういう底力を引き出したのは、やはりその生徒さんたちを身捨てず、ときには厳しいことも言い、道しるべとなってそこに在り続けた先生方の努力の賜物であろう。
ところで、はりネットの日比先生との出会いは?
とお尋ねすると、嶺先生は、ちょっと頭を抱えて必死に思い出そうとされた。もう、理事としてNPOに深く関わり、他の先生方とも親しく活動されている現在、出会いのことがすでに曖昧になっておられるのであろう。
「たぶんですが…」とちょっと自信なさげに、「実はわたしは小さな研究会に所属しておりまして」とお話しくださった。
社会鍼灸学研究会という学会のようなものが13年前からあり、始まって4~5年目に先生は所属されたそうだ。現在会員は50名程度。2011年の研究会のテーマが、「やはり、震災のことでしょう」ということで、当時、被災地に入ってご活躍されていた方々にアンケート調査をされたそうだ。
そのとき、石巻で活動されていた日比先生にアンケートをお願いし、やり取りをされたのがきっかけだったと。
そうやって関わっていく間に、日比先生は、せっかくボランティアとして動いた先生方の横のつながりは大事だよね、と2012年の1月にまずは東日本大震災で鍼灸による支援を行った団体の会議を開き、NPOの立ち上げ構想を語られ、「手伝ってくれないか」ということで、はりネットが始まったそうだ。(おおお、誕生秘話!!!)
嶺先生ご自身は災害鍼灸マッサージプロジェクトに関わり、そちらので動くことが多いが、日比先生と情報のやり取りをし、活動場所の紹介をし合い、現場に入る日程や期間をお互いに調整し、カルテの共有など、今まで2015年、鬼怒川の決壊の際の常総市、2016年、熊本地震など共に活動を続けてこられた。
いろんなチームに所属する利点をうまく活かし、この上ない良い関係を維持してこられたのは、やはり思いは一つで、見つめる先が利害や縄張り意識のような雑多なものを排除出来る良い関係が形成されてきたからであり、そういう関係性を築いてきたからこそ、すべての活動がうまく運んでいたんだと、今さらながら感嘆させていただいた。
災害鍼灸に関して、先生は明確なビジョンをお持ちだった。
教員をやっていて思うことは、と。
3年間のプログラムを学べば、西洋医学に関して相当の基準で他の医療者と話が出来るレベルまで学べる筈。災害地域に赴く鍼灸師が、はり・きゅう以外のことをどれだけ出来るか、だと。肉体労働だけやって帰ってきたって良い。血圧だけ測って、保健師さんにつないでくるだけでも良い。初期の大量に人手が要る避難所のアセスメントチームに加わって、情報収集だけ行っても良い。むりやり施術をしてくる必要はそのとき、ないのだ、と。そこでそうやって現地や他の支援者と繋がり、鍼灸師とその専門性を知ってもらい、今後、鍼灸師としての活動にも期待を寄せられるようになる。まずは、必要とされていることを見抜く目が必要で、こちらの押し付けではなく相手の立場を理解すること。
被災地での活動は、そのまま地域包括ケアの縮図である、と先生はご自身でおっしゃって「なるほど、そういうことか」と笑った。言葉にすることで明確になる無意識下の構想があったりする。
今後、学校はどんどん合格率が下がっていくでしょう、と先生はふとおっしゃった。鍼灸を目指す生徒さんが減っている事実、昨年4月の新入生から適応されているカリキュラムの大幅な改正があり、臨床実習は4倍必要になった。授業のコマ数も増えている中、その変化に適応していく教員研修が行われず、今後ますます厳しくなっていくのではないか。
ただ、これはチャンスだと先生はおっしゃった。鍼灸師を育てるのだ、という強い意識を持っていない学校は淘汰されていくだろう。日本の鍼灸を今後どうしていくのか、それを教育の現場、教育という部分から考える機会となるだろう、と。