2019-03-05
大阪の街を駆ける体から整える美容鍼灸師

(この記事は、メルマガ企画「突撃! となりの鍼灸院」(仮題)のインタビュー記事(第二弾)です。文責:メルマガ担当・フジヌマ)

出張専門治療院Ashigaru 土肥慶太氏

 出張専門治療院Ashigaru 土肥 慶太 先生
 突撃! の筈なのに、何故か「ここで会ったが百年目! さあ、ハナシを聞かせてもらおうか」みたいな展開でインタビューに至った一例目でございます。
 今回は、NPO鍼灸地域支援ネットが主催した滋賀県鍼灸師会、京都府鍼灸師会、京都府鍼灸マッサージ師会の先生方、大阪府鍼灸師会、兵庫県鍼灸師会の先生を集めての災害医療コーディネート研修。
 研修が終わってヘトヘトの先生をつかまえて、カフェにて。
 ほんとうは、治療院にお伺いする筈だったんですが…と申し上げたら、「あ、出張専門なんで」とのお答え。あら、それは好都合♪(何が? いえ、こっちの都合です)
 まず、お聞きしたルーチン質問。鍼灸師を目指したキッカケは何ですか?
「ありきたりですが」と土肥先生。学生時代に陸上競技をしていたんです。そのとき、治療院にお世話になったから、と。学生時代に競技を続ける中で腸脛靭帯炎(ランナーズ・ニー)を起こしたことがあり、最初、柔整治療のみで調整していたそうです。それでも徐々に良くなってきてはいたけれど、最後にひとつ決め手に欠けるなぁ、というとき、一緒に陸上競技をしていた同級生が「鍼良いで」と紹介してくれた。
 同じ治療院ではあったが、その友人の紹介で鍼治療を受療してみた。やってみたら結果が良かったとのこと。何回くらいで回復したのかは覚えていないが、そのときもう一つ衝撃を受けたことがあったそうです。
 それは、当時、先生ご自身は治療は痛い場所だけをすれば良いと考えていた。しかし、そのとき施術してくださった先生は脈を診て、全身の状態を診て、今思えば本治法を使って全体のバランスまでを診てくれていたのだろうという。その後、身体の調子が良くなり、大会毎に鍼で調子を整えることが出来た。
最初は柔道整復師の免許だけ取ろうと思ってました。当時はまだ保険が普通に使えて、柔整だけでやっていけると考えていたから。それに、両方取るのはお金が掛かるし、と。だけど、「陸上やってるとき、鍼灸施術良いな、と思っていた」と先生はおっしゃった。それはほんとうに実感を込めてそう感じていたのだろう。
 平成医療専門学校で柔整科に通っている間にも鍼灸学科の学生と交流があったそうで、いろいろ話も聞いていたのだろう、柔整2年時に遂に決意し、3年に進むとき、鍼灸学科の1年生となった。奇しくもそれは2011年、東日本大震災の年のこと。そして、まさに震災の瞬間、先生は付属治療院で鍼灸施術を受けていた。施術をしてくださっていた先生が、「なんか眩暈がしてるんじゃないか」とその揺れを感じていたそうだ。しかし、施術を受けてうつ伏せ状態だった土肥先生は何も気づかなかったという。
 東日本のときには、ボランティアは考えられなかったのか? とお尋ねしたとき、「まだ、学生だったので」。それもそうか。それでも、先生は阪神・淡路大震災を大阪でご経験されている。そのときの揺れは「異質だった」とおっしゃった。震度としては4くらいだったが、とにかく、揺れ方が通常と違っておかしかったと。
 ボランティアに進んだのは、単純に「人の役に立ちたい」という考えと、やはり、大震災の経験が頭のどこかにあったかも知れません、と先生はおっしゃった。原点には、その震災があったのだろう、と。
 それはそうだろう、と思った。高校1年生のときに震災を経験され、その災害でご親戚を失っていらっしゃる。震災で破壊された町や建物や道路を目の当たりにされたのだ。そういう記憶は、本人が自覚しているかどうかは別として、深いところに刻まれるものだろうと思う。
 日比先生との出会いは、と伺うと、美容鍼灸の先生に紹介されたとのこと。日比先生も美容鍼灸と関わりがあり、その団体とのつながりがあったらしい。
土肥先生は、専門学校を卒業されてから、鍼灸整骨院に2年ほど勤務し、その後独立して出張専門で診療を始められた。
 その根底には、生い立ちが関係あるかも知れない、と先生はおっしゃった。先生は4歳上のお姉さんとふたりきょうだいで、ご両親は転勤族。生まれは福岡県、10歳までそこで過ごされ、その後、小学校卒業までを東京都、そして、中学生時代から現在に至るまで大阪という風に、主要都市を転々とされた。治療院を構えてそこに落ち着くことを考えなかったのは、そういう影響もあるかも知れない。そして、当面はこのスタイルで仕事を続けていくつもりだけれど、大阪に治療院を、という考えはないとおっしゃった。
 震災のボランティアは、京都に避難されていた方に対するものが最初で、それまでも連絡は取っていたが、そのボランティアの際に日比先生には初めてお会いしたそうだ。その前は、マラソン大会でマッサージのボランティアをしていたという。ボランティアに邁進され、その活動を続ける先生は、やはりいつでもどこでもボランティアに関わっているものなんだなぁ、と感慨を抱く。
 ボランティアに関して。「やりがいは感じている」と先生はおっしゃった。岡山へは9月から10月末まで月一回のペースで通われた。そこの避難所が仮設に移り、11月に行ったときには施術をする場がなく、そのときは現地調査で終わった。地元の市内の先生とも交流をはかり、先生方がいろいろ頑張ってくれて、2月16~17日に開催された被災された方々が集まる小さなお祭りのようなイベントに参加することが出来たそうだ。
 今でもそんな風に災害で被災された方々のために奔走されていらっしゃる。そして、この日は、研修会に参加。疲労の色が濃い先生のご様子だったが、精力的にあちこちで活動されている。
 ボランティア施術の際、傾聴という視点で心がけていることは、とうかがうと、「会話の中で自然に話してもらうこと」話したいことがある方には、話してもらい、「いろんな方がいらっしゃるので話したくない方には黙って施術する」。
 たとえば―と教えてくださった中には、「股関節が痛いという女性がいて」と。
「けっこう座ることが多いんじゃないですか?」と聞いてみた。
 すると、お子さんを送迎するのに車で待っている時間があったり、運動不足で座りっぱなしで、と。「災害があってから、生活の変化で体調を崩されることあるんですよ」と症状から先生が相づちを打たれると、堰を切ったようにお話ししてくださった方がいらしたそうだ。
 それはもちろん、通常の施術でも同じだ。土肥先生の空気は穏やかで静けさがあって、恐らく患者さんから信頼を受け、聞いてくれそうに思われるのだろうと予想された。この先生は分かってくれると思うと患者さんはいろいろ話してくれるのだと。
 それでも、先生はそういう話は「忘れますけどね」。
 そういうものをどんどん抱えたままでは、施術の度に人生を幾通りも経験してしまうことになるのだろう。聞くことと覚えていることはベツモノであり、患者さんにとっては、「話す」という行為が「吐きだす」ことであり、心の安定につながる治療の一環でもある。
 その内、何をお聞きしたときだったのか覚えていないのだが、ちょっと声をひそめて先生は遠慮深くおっしゃった。「鍼灸師って変な人が多いですよね」。
 はいはいはい。声をひそめていただかなくたって、声を大にしてもその通りでございます。
 西洋医学以外の医療従事者は、ほぼ‘変’だと思っている。というより、ある程度の意志の強さと覚悟、信念をお持ちでないと鍼灸の道に進もうと考えないのではないだろうか。土肥先生がそうであったように、鍼灸に対して信頼を抱き、その良さを認めた人たちが関わっているこの世界に、‘ひかり(希望)’を見るのは患者さんだけではない。
それから、先生はおっしゃった。
「先日岡山で施術したとき(悪い気を)大分もらってきてしまっている」と感じたそうだ。
 明らかに身体が重い、と。
 施術に一生懸命になればなるほど、相手のことを想うようになればなるほど、分かるようになればなるほど、そういう側面はあるのかも知れない。
 休養して、回復させ、そして先生はまた日常を再開させる。今の仕事のスタイルだと動きやすいから、と。
 大阪の地で出張診療を続ける土肥先生。
「フットワーク軽くうかがい
施術を受けていただいた方に、心身ともに軽くなっていただきたい」思いで名付けたAshigaru治療院。
 体から整える美容鍼灸師は、今日も大阪の街を軽やかに走っている。

害医療コーディネート研修集合写真
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