2019-05-10
災害医療を4足目の草鞋として

木村展育(のぶやす) 先生

 もうすぐ平成が終わりを迎える(とはいえ、まだ2カ月弱はありましたが)3月10日のお昼。ACT災害医療コーディネート研修の会場で木村先生をつかまえて「ぜひ、ランチをご一緒に」などと会場の外へ連れ出した。

 途中現れた日比理事長に「尋問受けてます」とにこにこおっしゃられた木村先生。やはり淡々とした静けさをお持ちの鍼灸師でありました。

木村展育(のぶやす) 先生

 先生は宮城県仙台市のご出身。19歳で東京に出て都内で出会われた奥さまとご結婚され、現在も東京にお住まいである。震災当時、ご両親が仙台市にお住まいで、3月末に仙台のご両親のもとを訪れた。そのとき大変だったのは、家は内陸にあり津波の被害はなかったが、灯油が尽き掛けていたことだったそうだ。ホームタンクに給油してくれるはずの前日に震災が起こり、給油が出来ていなかった。しかし、数日後にタンク一つ分の補給があり、ガス供給がストップされたなか反射式石油ストーブを使い、その上で調理等をしてしのいだそうだ。

 先生がご実家に入られる前に、高校時代のご友人がご夫婦二人だけの先生のご両親を心配されて食料などを持参して尋ねてくれていたそうだ。その恩返しもあって、お近くにお住まいの浜野先生と一緒に被災地にボランティアに入ったのが、楽天が優勝を果たした年の11月くらい。宮城県内は楽天の優勝に沸き返っていたそうだ。その中を、娘さんを連れて車で石巻にボランティアに入られた。

 鍼灸師になられたきっかけというか、何故鍼灸師になろうとお考えになったのか、と聞いたとき。

「難しい質問ですね」と答えられ、しばし考えられた木村先生。

 20代のときに、宅配便配達をしていた。その後、障害者送迎サービス、自動販売機の補充などのお仕事をされ、肉体労働は段々年齢と共にきつくなってくる、そして、「運転手は一生は出来ないな」と遣り甲斐を求めるに至った。

 直接のきっかけとしては、鍼灸学校に入るまで、鍼を受けたことはなかったと先生はおっしゃった。ただ、少林寺拳法をやっていて、その中に「整法」というのがあり、ちょっと指圧や操体法に似ていた。それを体験したことがあって、更に「健康」というものについてはずっと興味がおありだったこともあり、どんどん道は医療の方へと導かれていった。

 30歳くらいのとき、先生の知人の方に「快医学」という本を紹介された。その方が講習会を受けたという話しをお聞きし、先生も10回コースくらいのその講習会を受講された。そのとき講師をなさっていた鍼灸師の先生に「君は鍼灸師に向いてるんじゃない?」というお言葉をいただき、そうか鍼灸師という仕事は「一生出来るかな」と先生は鍼灸の道に進むことを決意されたそうだ。

 39歳のとき、専門学校へ入学。そのとき、浜野先生とも出会われた。

 卒業後、先生は訪問で鍼灸マッサージ診療を続けられている。そして、身体障害者の送迎サービスを行っていたときに行っていたような介助の仕事が、介護の制度が変わり、資格がなくては出来なくなるかも知れないということを聞き、4~5年前に介護福祉士の資格も取得された。

 先生には長年の実務経験があったので、実技試験のために2日間の講習を受講されただけで、試験を受けることが出来た。

 それから二足どころか三足のわらじを履いていらっしゃる先生。昨年より、お知り合いの方よりお願いされて「たべ研」という自然食品を扱う店の配達も週に2回行っていらっしゃる。地産地消を謳う産直の店で、会員さんがいらっしゃり、次回注文書を配達の際にいただいてくる。今後、世界的に食糧事情は厳しくなってくるだろうと先生はおっしゃった。食の安全や食料の確保。そういうことに関心を向けられていらっしゃるのだなぁ、と感じた。

 鍼灸というものに対して、診療を行っている中で感じることなど何かありますか? とお聞きしてみた。

 先生は、それにはすぐにお答えくださった。

「本来、鍼灸師は要らないかな?」その衝撃のご回答に、「え?」となった。

 先生は続けておっしゃる。「自分で自分の身体を治す方法を伝えていきたい」と。「鍼は難しいけど、お灸だったら、千年灸とかである程度出来るだろうから」治療するということから、治療方法を教えていく方向にと。

「例えば月に一回だけ(先生が治療に)来て、そのときちょっと良くなってもすぐ戻ってしまう」。病気にならないような生活をするとか、そういう生活指導の方が大事なのではないか、と。だから、本当は要らない仕事なのかな? とおっしゃる。

 自らの職業を「本来は要らないもの」と言える、本気で考えることの出来る勇気を思う。

 そういう観点で言えば、警察と医者が要らない世界になることが「社会」としては幸せな状態であろうと思うから。しかし、医者も警察もそんなことを言う人は滅多にいない。
 批判・非難のつもりではないし、だからどうだというハナシでもないが、事実として、社会が病まなくなったら仕事を失う職業というものがたくさんある。刑事ドラマなんかで、「社会に犯罪をゼロにするために働いている」という刑事の言葉を寒々しく感じたことがあった。実際に被害が出なければ動けない警察。犯罪抑止のためには、犯罪者を捕まえて刑罰を与えるというある意味、見せしめしか出来ないような国家組織。そして、国の機関であるが故に、ときには国民より国益のために動かざるを得ない国家権力。

 病気がなくなれば困るのはおそらく医師より製薬会社であろう。医療そのものを扱う医療従事者には、「予防医学」「養生」という、まさに木村先生が目指す崇高な目標を根底に抱いていけることが理想だと思う。治療ではなく、そもそも病気にならない生活を一緒に模索していけることが大切だろうと。その方一人一人に合った、無理のない仕事量、精神生活、そういうものを共に考えることは、自らの命の養生にも繋がるのではないだろうか。

 災害に関わるようになった動機はありますか、と聞いてみた。医療を生業としてはいても、そこから「災害医療へ」という考えが誰でもあるわけではないと思っている。ある種、特殊な方向だと思うからだ。

「実は、阪神・淡路大震災のときから、少し関わっているんです」と先生はぽつりとおっしゃった。

「障害者送迎サービスをしていた中で、障害者団体の団体同士のつながりがあり、被災地の障害者の方の様子を見に行きたいという方の介助者として現地について行ったことがあった」そうだ。すさまじい災害の様子を目の当たりにされた衝撃は心に刻まれたことだろうと推察される。その後、東日本大震災の後、ご実家へ行ったときに見た海の光景も「いつも行ってた海がすごい状況」になっていたと先生はおっしゃった。

 それから、宮城県沖地震の際、先生は中学3年生で、まさに地震の瞬間には先生は学校の校庭にいらしたそうだ。大きな揺れと共に体育館の壁の窓ガラスが落ち、地面にひびが入った! それは、中学生当時、とても怖かったと先生はおっしゃった。そこに「恐怖」が刻まれ、防災ということを考えるきっかけになったのだろう。

 人生で衝撃の体験をして、それをどのように消化し、その後に活かしていけるのか、人それぞれであろう。防災という観点で言えば、建物や堤防などのハード面を考える方向、心理学的な面からのアプローチ、とりあえず身を守るための防災用品などの開発、いろいろあると思う。しかし、先生の魂に刻まれたそれは「健康」への関心と「遣り甲斐」という両輪を得て、鍼灸師という医療の道へと向かわせた。根底にあった災害に対する思いが最終的に災害医療へと導いたのだろうか。

木村先生と日比先生

 今回は、災害医療コーディネート研修の最中でお話しを聞かせていただいたので、ついでに、受講したご感想などをうかがってみた。

「自分がどういう状況で(本部に)入るか」イメージはあまり出来ないご様子で、ただ「被災しちゃうとその場で何かしなくちゃならないかも」とおっしゃった。「どっから繋がっていけるのか。平時に繋がっておくことが必要ではないか」と。

 そして、「行政と繋がっていないと意味ないよね」と。

 それらは、NPOが抱える今後の課題であり、壮大な計画の始まりを示唆するような言葉でもあったと思う。

(この記事は、メルマガ企画「突撃! となりの鍼灸院」(仮題)のインタビュー記事です。文責:メルマガ担当・フジヌマ)

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